
僕の3.11…その①
2011年3月11日14時46分から生活が一変しました。
色々な方の【あの日】があると思いますが、忘れちゃいけない【あの日】に僕が経験した事を伝えるのも生かされた僕の使命だと思い書き残しておきたいと思います。
それは突然やってきた
僕は福島県浪江町という小さな町で3代目として酒屋を奥さんと2人で営んでいた。
その日は中学・高校・大学と同じ学校に通っていた柔道部の後輩が昼前に遊びに来ていたので、12時過ぎに後輩とラーメンを食べに行きながら、昔話をしたり世間話をしたりと昼休みを楽しんでいた。
14時に奥さんと昼交代のために店に戻り新しい冷蔵庫に何を入れるか考えていた。
実は震災の2日前である3月9日に1台400万のお酒用の冷蔵庫を2台入れたばかりで、どんな新しいお酒を仕入れてどんな並びにするかなど1人で盛り上がっていた。



そして14時46分…。
地鳴りのような鈍い音がし始めカタカタと小さな揺れが始まった。
もともと地震が少ない地域ではなかったので、慣れていたと言えば慣れていたのかもしれない。
『またきたな!』程度にしか考えていなかった。
その後徐々に揺れが大きくなり何を思ったのか、2日前に入れたばかりの冷蔵庫を思わず押さえていた。
僕が押さえたところでどうにもならないけど、新しく入れた高額な冷蔵庫ってことと自分でもテンパっていたのかな?と後からは思ったけど、その時に自分が何を考えていたのかは思い出せない。
全てが崩れ落ちてきた
さらに揺れは大きくなり新しい冷蔵庫を押さえながら揺れが収まるのを待っていたが、収まるどころか段々と大きくなりもともとあったアイスや氷を入れていた縦型の冷凍庫が一番最初に倒れた。
『もうダメだ…。』と思った瞬間に違う冷蔵庫が大きく振られ2台目・3台目と倒れ始め、高いところにあった商品から次々にガシャン!ガシャン!!と落ち、商品棚ごと倒れ始めた時に僕は店外に飛び出そうとサンダル履きのまま、割れた酒瓶の上を死に物狂いで逃げ出した。
外に出て店を振り返ったら中が見えないほど物が散乱し、建物自体も傾いて入口のドアは歪んで開かない状態になっていた。



大袈裟じゃなく後10秒遅れていたら店内に閉じ込められていたかもしれない。
新しく冷蔵庫を入れる時に壁から2メートル程度冷蔵庫を前に出し、後ろに開いた場所で『酒の会』ができるようにしていたのだが、結果的にはその2メートル前に出した冷蔵庫にお店の梁が乗っかって、お店が完全に潰れることなく僕も助かった。
続く余震
店外に飛び出したはいいが続く余震で隣の建物の瓦は滑り落ち電信柱は飴のようにグニャグニャに揺れ、傾いたお店もいつ崩れるのかわからない状況が続いた。
とっさに子供達の事が頭に浮かび助けに行かなくちゃと思ったけど、お店には現金もあり入ろうと思えば誰でも入れる状況だったから、どうしようと思ってた時に夕飯の買い物を奥さんが車で戻ってきたので、そのまま迎えに行くように伝え僕はお店の裏にあった家にいた母ちゃんを助けに行った。
『母ちゃん、母ちゃん』と呼び続けながら裏に行くと、愛犬を抱え庭でうずくまっていた母ちゃんを見つけ、お店の前の駅前ロータリーに連れ出した。
その後なんども襲ってくる余震に経を感じた。
今まで柔道の試合でも喧嘩の時でも足が震えるのを経験したことはなかったけど、流石にこの時ばかりは足の震えが止まらずその場に座り込んでしまった。
とりあえず無事
学校に行ってた子供達が戻って無事を確認した。
が、電話が繋がらない状況で当時お爺ちゃんの介護でいわきに住んでた親父に連絡が取れなかった。
電話をかけることもできず親父とお爺ちゃんの安否が気になってた時に、福井に嫁いだ2番目の姉から1通のメールが届いた。
『地震大丈夫?』
たったそれだけの内容だったけどメールは使えたことで少し安心したのを覚えてる。
『もうダメだ…。』
それだけを返信した後に何故か姉からの電話はときたま繋がり、親父との連絡は福井の姉経由でとなったのだが、親父がお爺ちゃんを叔母さんに任せこっちに向かっていると聞いた僕は、姉にこっちに戻って来ても店は崩れかけてて何もできないし、道路状況もどうなってるかわからないから来なくていいと伝えてもらうようにお願いした。
しかし親父もお店の状況を見てないので判断できないしなんとか行ける所までは行くと姉に言ったそうだった。
お客様が押し寄せて来た
親父を待つ間お店の前で奥さんや子供達や近所の人達と【これからどうしよう】とか話していたら、何故だかウチの前に車が集まり始め、皆こぞってタバコの自販機でタバコを買い溜めし始めている。
その時に初めて気付いたのがウチ以外は停電になってるんだってこと。
停電でお店もやってないし自販機でも買えないから、電気は止まっていなかったウチの自販機に殺到することになったらしい。
確かにウチの店は電気も点いてたけどパソコン用の予備電源には電気が流れていなかったらしく、ピーピーと警報音がなり続けていた。(のちに全国放送でその状況が中継されたらしい)
一気にタバコの自販機が売り切れランプが点き、買えなかったお客様から『店の中にあるやつ売ってよ』と言われ、この状況で店の中にタバコを取りに入って販売できるかできないか判断できないくらいテンパってるんだなって、どこか冷静になってる自分がいることに気づいた。
タバコ同様お酒のお客様も同じことを言ってた方もいた。
できれば商売人として売りたい気持ちはあるけど流石に無理だとお伝えした。
ウチの子供がいないんだけどって知り合いとか、通常であれば20分程度の距離を2時間かけて帰って来て幼稚園にまだ迎えに行けてないと泣きながら言ってた柔道を教えてた子供の親御さん。
全身泥まみれになって『大丈夫ですか?』と声をかけていただいた蔵元さん。
逆に『大丈夫ですか?』と聞くと、どうやら2階部分で寝てる時に地震がきたらしく、旧家だったためにそのまま1階部分が潰れ2階の部屋から飛び出したそうで、九死に一生で逃げ出したとのことだった。
常連のお客様や知り合いがお店の前を通るたびに『大丈夫か?』と傾いたお店を見ながら言ってもらえるのが、皆同じような状況なのに人のことまで気にしてもらえることに泣きそうになった。
津波警報発令
余震が続く中聞き取りづらい【津波警報】が町中に鳴り響いた。
今まで何度も津波警報が出ていた時も5cm〜10cm程度だったので特別気にもしてなかったのだが、海側から逃げて来た人達の話を聞いて流石にヤバイと思って、まず子供達と奥さんと母ちゃんを逃がそうと高台である大堀総合グラウンドに行くように伝えた。
来る人来る人の話では10メートル以上の津波がきたとか、津波で請戸地区が流されて無くなっちゃったと聞くけど、それでも僕は見てなかったし請戸が無くなったなんて信じられなかった。
親父が到着
夕方18時くらいだったか親父がいわきからやっとの思いで到着した。
普段であれば車で1時間程度の道のりだが話を聞くと自分の車を出そうかと思ったら、道路に出る所にあった隣の家の蔵が倒壊し道を塞いでいて車を出せなかったらしく、国道に出たところでタクシーを拾いとりあえず浪江方面に走ってもらったらしい。
途中道路が陥没してて迂回したり大渋滞で車が動かなかったりで、サッカー日本代表も合宿を行ったJ−villageがある広野町までしか来れなかったのだが、タクシーの運転手さんが駐車場に止まっていた浪江方面に向かう車を探してくれて乗せてもらったと聞いた。
『困った時はお互い様』という言葉を震災で実体験することになるとは。
崩れそうなお店を見た親父はとりあえず店内に入ってレジのお金を持ち、自販機の鍵を取って中のお金を抜き取った。
僕はそこまで頭が回らなかった。
家族がグラウンドに避難していることを告げると、とりあえずお店の入り口にあったジュースを箱で持てるだけ持って僕達もグラウンドに向かった。
初めての避難所
浪江中学校の体育館が避難所だと聞いて車で寝るわけにもいかないのでとりあえず向かうと、ご近所さんやお客様も沢山いてお互い励まし合いながら色々な話をした。
その間も余震は続き揺れるたびに天井のぶら下がった電灯が揺れ体育館が軋む音が更に恐怖心を煽った。
夜ご飯も配給されたがウチの家族で9人に対して小さいおにぎりが3個と、何も無いよりはいいけど大人7人に子供2人にはあまりにも少なかった。
おばあちゃんと子供達に1個ずつ渡し食べるように言ったが、子供達は『みんな食べてないから我慢する。パパとママ食べていいよ。』と言われ涙が溢れてきた。
その日は続く余震に眠れぬ夜を過ごした。
翌朝にあんなことになるなんて思ってもみなかった…。